スピリチュアルが胡散臭いと思う原因
スピリチュアルが胡散臭いと思う原因
スピリチュアルが胡散臭いと思う原因について、話をさせていただくが、スピリチュアルから見てスピリットが胡散臭いと思われる原因についていくつか存在する。
私自身も、普通の人と同じように普通に生きていたとするならば、スピリチュアルについて胡散臭いと思われていたかもしれない。
まずは、左脳と右脳について、左脳は言葉の組み立て、論理的な認識、計算や比較など、どちらかと言えば目に見える現実世界を認識する力に長けており理系的な働きをする傾向がある。
右脳は、音楽のリズム、イメージによる認識、直感や全体的な雰囲気など、どちらかと言えば目に見えない心を感じる力に長けており文系的な働きをする傾向がある。
本来であれば、バランスが整っている方が望ましくあるが、人は価値を求める生き物であり偏りも現れやすく、その結果物事の考えや価値観に違いも現れやすくなるのだ。
日本の教育は、誰しもが目で見て共通する知識の一つ一つの気づきに価値を置く傾向が高く、またそれだけが真実との考え方も現れやすく、目で見て表現できることができないスピリチュアルについて胡散臭いと思われるのも当然かもしれない。
スキーマについて、スキーマとは、枠や図などの意味があり、人は、自分自身が持ち合わせているスキーマを使って物事を認識している働きがある。
例えば、目の前にコップがあった場合、頭の中にあるスキーマの情報、コップは硬い、コップは水を入れる容器などの関連する情報と現実世界にあるものが一致することによって、それをコップだと認識しているのだ。
当たり前の話だと思われるかもしれないが、決して当たり前の話ではなく、例えば、動くはずもないコップがガタガタと動けば、自分が持ち合わせているスキーマの情報と一致せず、自身に危害を与える可能性があるものとして警戒心が高まりストレスも現れやすくなる。
また、このスキーマは、何かと似てるものを一致させる姿として現れやすくなる場合もある。例えば、形状がコップに近い形状のもの、それをコップだと強制的に一致させる働きだ。
スピリチュアルが胡散臭いと思われるのも、胡散臭い何かのスキーマに対する情報持ち合わせている場合もあり、それと一致することによって、スピリチュアルが胡散臭いとして現れている場合もある。
この場合においては、オーム真理教や霊感商法で人を騙す話など、その記憶を持ち合わせている人々にとって、スピリチュアルが胡散臭いと思われる姿も現れやすくなるはずだ。
魂の成長、このブログでは何度も話をさせていただいているが、知識の成長が知識の一つ一つの気づきであり、心の成長である霊格の成長も同じく心からの一つ一つの気づきである。
霊格が高まれば、精神的な意味で存在力が高まり、他者の心満たす創造力も高まり、心の気づきが多い分だけ物事を見る視野も広がりやすくなる。この話は、難しい話ではなく精神的な意味で大人になる話だ。
霊格が低いとは、精神的な意味で存在力が弱く、他者の心満たすよりも自分の心が満たされたい気持ちを優先になりがちであり、心の気づきが少ない分だけ物事を見る視野も狭くなりがちになる。この話も、難しい話ではなく精神的な意味で子供だ。
霊格の特徴として、霊格が低い人から霊格が高い人の価値観に気づきが現れにくく、霊格が高い人から霊格が低い人の姿が精神的に幼い気持ちとして現れやすくなる。
日本の教育は、知識の一つ一つの気づきのみに価値を置く傾向が高く、心の一つ一つの気づきに力が弱く、霊格が低い人々も現れやすくなっている。
心の気づきが少ないため、スピリチュアルの価値観に気づきが現れにくいのも必然的であり、割と日本の中では、スピリチュアルについて胡散臭いと思われている人々も多くいるかもしれない。