シンクロニシティはただの気のせい?
シンクロニシティはただの気のせい?
シンクロニシティはただの気のせい?スピリチュアルから見る話をさせていただくが、シンクロニシティと呼ばれる言葉をご存知であろうか。
深層心理学者ユングが提言した概念で、意味のある偶然の一致を示し、日本においては共時性と訳されている言葉である。
因果関係で説明されないものであり、集合的無意識が関わっていると考えられている。
人の意識の下には、個人の無意識が存在しており、その先は、人類共通する集合的無意識があるとの考え方だ。
集合的無意識と聞くと、無機質なものだと思われがちであるが、あくまでも、意識する人間にとって意識できない領域であり、集合的無意識には意識があると考えられている話でもある。
偶然の一致が起きると、何もかも、シンクロニシティと結びつける人がいるものであり、必ず、偶然の一致の全てがシンクロニシティとも呼べない。
人は、入ってくる情報を全て取り入れ、自分にとって必要な情報のみを取捨選択し意識に上げている考え方があるのだ。
例えば、同じ数字ばかりを見る偶然の一致などもあるかと思うが、その数字に意識が高まっていれば、世の中にあるその数字を拾い上げ偶然の一致として思われる出来事も現れやすくなる。
また、シンクロニシティは、絶対的な話としてではないが、他人から気づかされるものでもない。
自分自身の中で、気づかされるものでもあり、そこには新たな発見としての出来事や自分自身で考えるためのきっかけである場合もある。
ユングの言葉の中に、人間の意識同士は、実は、集合的無意識によって交流している話もされており、そのエネルギーが意識に現れる場合もあるのだ。
シンクロニシティの働きは、集合的無意識の働きの中で現れる力である。
人類が共通する知識と聞くと、集合的無意識に貯蓄するものだと思われるかもしれない。ユングの言葉の中に、集合的無意識から分断され、人々の意識に送り込まれる考え方もされているのだ。
そのため、例えば、全く交流のない外国同士の神話などに共通する出来事として現れる場合もある。
ただ、エネルギーそのものは似たようなものであるが、顕在化するときの表現の仕方に違いが現れる場合もある。
例えば、西洋で言えばアダムとイブ、日本で言えば、イザナギとイザナミとしての考え方だ。
これも絶対的な話ではないが、シンクロニシティは、自分自身で考える力のある人に起きやすい。
なぜならば、意味について伝えた中で、興味がない、意識が薄い人にシンクロニシティを起こしたとしても反応がなければ集合的無意識にとっても意味のない出来事でもあるであろう。
スピリチュアルでは、地球の全体的なエネルギーの質が男性的優位のエネルギーから、徐々に女性的優位のエネルギーに変化が始まっている話がある。
男性的優位のエネルギーは、目に見える物質に価値を置く傾向が高くあり、女性的優位のエネルギーは、目に見えない心に価値を求める傾向が現れやすくなる。
つまり、人々の意識が、集合的無意識に向く姿も現れやすくなり、メッセージを伺う出来事としてシンクロニシティが現れやすくなってくるかもしれない。
ただ、私個人が考える中では、シンクロニシティを起こすには、様々な人々を動かす必要性があり、ある特定の人だけをターゲットにしているのではなく、様々な人間を扱うことによって、特定のシンクロニシティが起きやすくなっている考えもあるかもしれない。
例えば、友達に誘われたところに、たまたま、昔の友人がいたについては、友達が誘わなければ偶然が起きないものであり、全体的な働きの中での意味のある出来事だと考えることもできるであろう。